Breaking News >> Newspaper >> 世界日報


ある俳人の肖像 芸術の根には家庭的価値が


Link [2022-06-04 15:27:58]



客員論説委員 増子 耕一 「沖」を主宰する俳人の故能村(のむら)登四郎(としろう)に、最初に取材させてもらったのは、1976年5月のことで、『定本 枯野の沖』が出されて間もなくの頃。俳句についての考えや、句集ごとに変化する課題を聞いていくうちに、俳句の魅力に誘われていった。 その後も、小紙に俳句や随筆の原稿を寄せていただき、85年句集『天井華』で蛇笏(だこつ)賞を受賞した際にもインタビューをさせてもらった。73歳だったが、「ぼくの思うライバルは、先輩で俳句のうまい人じゃなくて、ずっと若い人です。その若さのエネルギーと競争している」と語ってまた驚かされた。 登四郎は2001年に亡くなり、「沖」主宰はご子息の能村研三さんが継承。現在、俳人協会理事長でもある。20年10月には創刊50周年記念号が出された。同じ時期に記念祝賀会が行われる予定だったが、コロナ禍の影響で延期を繰り返した後、今年5月に都内のホテルで開催された。 会場に創刊号から記念号16冊の表紙をパネルで展示して、50年の歩みを振り返った。「沖」が創刊された年、研三さんは大学生で、母と共に発行業務を手伝わざるを得ず、3カ月目に福永耕二の指導する若手俳句会に参加。「何も解らず俳句の道に入り込んだ私を、やさしく導いてくれた耕二への師恩は生涯忘れない」と記す。福永は登四郎と同じ市川学園の教師で「沖」を支えた人物。 併せて研三さんの千葉県文化功労者表彰も行われた。市川市役所に入庁していた後半期、市の文化振興の職務を担って文化人を顕彰、市川市文化ミュージアムを開館させた。現在も千葉県俳句作家協会会長を務めている。 大会委員長の千田百里さんや副主宰の森岡正作さんがエピソードを語り、「対岸」主宰の今瀬剛一さんは登四郎を「私の父のようなもの」と述べた。句会で遅くなって能村家に泊めてもらった深夜、「寝ようとすると登四郎先生が入って来てしゃべり続け、これから若い人たちだぞ、よろしく頼む、とすごい情熱の方。時計を見ると2時半だった」。 ところで03年2月、米国のワシントンで言論人会議が開かれて参加させてもらったことがあった。心に深く残ったスピーチがあった。小紙姉妹紙ワシントン・タイムズの当時の編集長ウェスレー・ブルーデンさんの話で「新聞は道徳的でなければならず、家庭的価値を守るものでなければならない」というもの。帰国してからも文化や芸術を考える上で深く心に留めている。 記念号で充実していたのは「沖の源流」という、同人たちの句と選評で綴(つづ)った50年史。その歴史に圧倒されたが、その背景には、主宰者らの家庭的価値があったのではないかと考えさせられた。 それが伝わってくるのは研三さんが書いた『能村登四郎の百句』(ふらんす堂、21年)で、登四郎の句に解説を施している。 「子にみやげなき秋の夜の肩車」(『定本咀嚼(そしゃく)音』)。作者が多忙を極めた時期で、研三さんは「幼心にも帰りが遅い父親を心配していたことが何度もあったことを記憶している」と記し、「こんなごま化し方でもする他はなかった」と作者の自註(じちゅう)を紹介する。 「一度だけの妻の世終わる露の中」(『天井華』)。研三さんは母親の亡くなる状況を記した後、作者の言葉を紹介する。「明治生まれの男は女性に愛を示す方法はまるでできない。(中略)妻は私が最初に知った女でしかも最後の女でもあった」と。



Most Read

2024-09-19 04:07:16